機関紙建設なんぶ

機関紙建設なんぶ2008年8月10日号

平和特集号

平和の願い語り継ぐ

生きて帰れないと覚悟した

―21歳で召集令状・満州へ―

 

芝分会の篠田孝治さん(85歳)が戦時中の貴重な体験を語ります。篠田さんは、赤紙ひとつで召集されました。どこに連れていかれるかもわからない。厳しい訓練に涙を流し、戦場では命がけ。「生きては帰れない」と覚悟したといいます。戦争というものの残酷さや不条理さをあらためて考えていきたいと思います。

 

写真【芝・家具取付・篠田孝治】
 終戦記念日になると、戦争中の軍隊時代を思いだします。
 私が家具屋に年季奉公に出て、少しは仕事が出来るようになった1941年(昭和16年)、日本はアメリカ、イギリスと戦争を開始しました。はじめのうちは勝ち戦で花電車、提灯行列と浮かれていましたが、1年くらい経つと戦況がおかしくなって来ました。
 私も20歳になり徴兵検査の呼び出しが来ました。検査の結果は丙種合格最下位で「これでは、兵隊には取られないだろう」と思っていたら、次の年の21歳の誕生日に召集令状が来ました。自動車の運転免許を持っていたからでしょうか。召集令状は逮捕状のようなもので、逃げることは出来ません。
 1943年12月8日、市川国府台の重砲連隊に入営し、10日後には満州八面通の野戦重砲二十七連隊に転属になりました。
 朝はマイナス25度、こんなところで、戦争の出来る兵に育てるための厳しい訓練が始まり、半年間続き、あまりのつらさに涙したこともありました。その後は、命令次第でどこに行くのかもわからず、いつの時も「日本へは生きて帰れない」と思っていました。やがて敗戦をむかえ、帰ってくると東京は焼け野原でした。
 戦争は兵士の苦しみもさることながら、残された家族も辛い思いをします。いつまでも戦争のない世の中であるよう願っています。

 

みなと・9条の会

俳優座・9条の会と共催

地域から平和の声を

 

写真8月1日、「平和憲法を守る一点で手をつなごう」とみなと・9条の会と俳優座9条の会が共催して俳優座劇場で「講演会」を開催しました。「九条の会」の井上ひさしさんが講演し、俳優の加藤剛さんなどが朗読で参加しました。
 みなと・9条の会と俳優座の共催は2度目。開催前から予約が殺到する大盛況でした。
 改憲派の麻生氏が自民党幹事長になるなど、福田改造内閣の閣僚も改憲派が復帰しています。また自衛隊恒久派兵も間もなく開会される臨時国会の争点です。憲法9条を守るためにさらに取り組みを強めましょう。

 

被害と加害の悲劇くり返すな

ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」

戦後も続いた闘い

ぬぐっても取れない殺人者としての感触

 

7月15日、本部会館で、第2回教宣部会と「平和共同取材」が開かれました。ドキュメンタリー映画「蟻の兵隊」を上映した後、監督の池谷薫さんと映画に出演した元兵士の奥村和一さん(80歳)を迎えてのトークショーが行われました。

 

写真【教宣部長・清水弘之】
 「蟻の兵隊」というドキュメンタリー映画をご存知でしょうか。
 80歳になる奥村和一氏の部隊は、第2次世界大戦後も日本軍の命により中国山西省に残留させられ内戦を戦わされました。
 長い残留生活を経て帰国してみたら、逃亡兵の扱いにされていました。奥村氏と元残留兵らが軍人恩給の支給を求めて、最高裁へと上告したのですが…。
 裁判を通じて主人公は、心の奥に閉ざしていた思いを一つひとつ自分なりに検証してゆくことになります。妻にさえ話しえなかったこと、自分たちが中国大陸で何をしてきたかということ。振り返ることは本人にとっても大変な思いであることは映像から伝わって来ました。
 奥村氏は、真実を明らかにするための中国への取材途中で一度だけ日本帝国軍人に戻ってしまったかの場面もありました。また、初年兵教育の名の下に命じられた罪のない中国人を刺し殺す肝試しは、80歳を超えた今でも、彼の身体にしみこんで取れないほどのすごさを想像させられました。
 トークの中で奥村氏は、「体の内に残されたものは無数の砲弾の破片だけでなく、殺人者の手ごたえであり、ぬぐってもぬぐっても取れない手の感触です」と言います。
 心身ともに人間を傷つけ、苦しめる。これが戦争というものでしょうか。

 

映画「蟻の兵隊」とは…

 

写真「このままでは死んでも死に切れない」元兵士の奥村和一さんの懸命に頑張る姿を見て「負けられない思い」で、撮影をしたと語る池谷薫監督。
 映画「蟻の兵隊」は日本軍山西省残留問題の真相を解明しようとする奥村さんの姿を追った世界初のドキュメンタリー。奥村さんは、1945年8月のポツダム宣言受諾後も軍司令官と中国の軍閥との密約によって4年間も中国に残留させられ、中国の内戦を戦わされた2600人のうちの1人。この内戦で約550人は戦死、700人以上が捕虜となった。長い抑留生活から、祖国に戻った彼らを待ち受けていたものは、「逃亡兵」としての扱い。日本政府は残留兵を「志願して勝手に戦争を続けた」とみなし、戦後補償(軍人恩給等)の支給を拒んでいる。

 

若者を戦場に行かせない

貧困は戦争への道

港区労連・高橋孝事務局長に聞く

 

写真希望の持てない世の中で、今、若者たちは不安を募らせています。仕事がない、あっても労働基準法無視の劣悪な労働条件で働かされているなど、深刻な労働相談も後をたちません。
 物価高で、ますます生活が困難になってきます。不安を取り除くためには雇用問題や社会問題を解決すると同時に憲法9条を守っていくことも重要です。憲法を「理想論」などと言っているのは、どう考えてもおかしいのです。
 港区労連の20代〜30代の青年を中心に「港☆青年九条の会」が2年ほど前に発足しました。今年は原水禁世界大会に代表派遣もしました。また、会では、6月21日に戦争体験者の話を聞く会を取り組みました。お話をしてくれたのは北区平和委員会の小山一郎さんです。小山さんは徴兵され、中国から北朝鮮に渡り、三光作戦(殺し、焼き、奪いつくす)なども行ないました。小山さんは、昨年中国を訪れて、被害者の方々に謝罪したそうです。
 青年たちから「なぜ命令されてしかたなく残虐な行為におよんでしまった人が謝罪をして、責任のある国がいまだに謝罪しないのか」「戦争は人間同士が殺しあう何ひとつ良いことがなく愚かな行為だ」という感想が寄せられています。
 今話題の堤美果さんの著書「ルポ・貧困大国アメリ」では、生存権を奪われた貧しいアメリカの若者たちが「生きるために」軍隊に動員され、アフガニスタンやイラクの戦場に送り込まれていく様子が描かれています。
 日本の場合は憲法9条があるから、若者が戦場に行かなくてすんでいますが、これがなくなって、いつでも戦争できる国になれば、食べられなくなった若者は軍隊に流され、最後には徴兵制ということになるでしょう。
 若者を戦場に行かせない、平和憲法を守るためにも運動に力を注いでいきたいと思います。

 

父の戦死に思う

平和のためにできること

 

写真【芝・ビルメンテ・大塚泰子】戦争という言葉は嫌いでも、私にとって切り離せない関係はあるのです。
 父は28歳で招集され、母と赤ん坊の私を置いて出征しました。
終戦をまたず、昭和19年8月に戦死したため、父の顔は写真でしか知りません。もし戦争がな かったら、母と私の人生はまた別のものがあったかもと思ってしまいます。
 当時、誰もがそうであったように私たち母娘も多難な道の連続でした。
 敗戦後、日本はもう2度と戦争はしないと決め、憲法9条を定めたはずなのです。
 今それを「時代遅れだ」と言って変えようとしている危険な動きを、平和の尊さを一番知っている私たちの世代が、反対してゆかなければならないと強く感じています。女性と母親とその子どもたちが笑って暮らし、未来に夢の持てる社会を残しゆくために平和のためにできることを自分なりにしてゆきたいと思っています。

石工部総会

  石の話は尽きぬ

  福島県・阿武隈高原で開催

 

写真【石工部長・梅田武久(白金・石工)】
 港支部石工部総会を6月25日、26日と1泊2日で良質の石の産地で知られた福島県阿武隈高原の石材丁場視察を兼ねて石工部員6人と小川書記の参加で開催しました。
 郡山でローカル線に乗り換え、阿武隈高原へ1時間、小野新町の駅には藤井石材社長出迎えの車でご案内いただき、芝山石(みかげ石)丁場を見学させていただき、石目・色・耐水性等丁寧にご説明を受けました。
 つづいてフクイシ石材でも佐藤社長のご案内のもと、新装になった素晴らしい工場(特に自動研磨機や2m近くある大口径切削機)には目を見張るものがありました。又、ファントーニ(立体オリジナル彫刻芸術)の微妙な曲線や深い陰影の彫刻技術に深く感銘を受け大いに見聞を広めました。
 総会は磐梯熱海温泉「華の湯」で開催し、新役員は次のとおりです。部長に梅田武久。副部長に進藤佐和夫、堀部忠次、小林友成。書記長に小野健三。財政部長に堀部忠次。会計監査に千光正夫。
 本部石工部は解散しましたが、港支部石工部は引き続き会員の交流の場として運動を継続していきます。
 翌日は緑いっぱいの山、そして畑の中をローカル線で会津若松へ向かい、飯盛山では戊辰戦争で若くして殉死した会津藩の少年決死隊であった白虎隊の霊を悼みました。鶴ヶ城の石垣は日本の伝統的土木構造物として世界に誇る代表的な文化遺産です。
 石垣もたびたびの地震に見舞われた影響で石材が動き、目地が開き歪み、荷重や風化による破損・剥離等が発生し、修理を依頼された小林石材の施工現場を見学させてもらいました。
 石垣の角は算木積(さんぎづみ)となっており、切石はすべてが整然と高く組み合わせてあり威圧感を受けました。石組と施工技術で話は尽きませんでした。
 文化財である石垣の施工技術の出来る石工が港支部の会員であることに大変心強さを感じました。今回の研修会はそれぞれの考え方は違っても、港支部の同じ石工の仲間であるという団結の結果がありました。

主婦の会

  しながわ水族館で交流

  魚たちに暑さ忘れる

写真7月27日、朝から晴れて暑い中、11時半に水族館前に各分会からの参加者と主婦の会役員合わせて25人が全員集合。館内の会議室でお弁当を食べながら交流し、記念撮影しました。その後は各自で見学できるように自由解散としました。
 館内はさすが夏休みの中の日曜日とあってかなりの混雑でした。それでも水槽の大トンネルの下で見る大亀やタイ、エイがマントを広げたようにゆったりと泳ぐ様は、なんとも気持ちよく、外の暑さを忘れさせてくれました。
 参加した子どもたちからも、イルカショーを見たり、ヒトデをさわったりできて、楽しかったとの感想が聞かれました。大人も珍しい魚たちを見て、童心にかえることができました。
 今回は参加者全員での交流時間が少なかったため、今後の企画には、もっとふれ合える行事をいろいろ考えてまいります。決定しましたらチラシや機関紙などでお知らせいたしますので、よろしくお願いいたします。
 9月28日には、ボウリング大会を開催いたします。会員の皆さま、ぜひまた、ご家族そろってご参加ください。
 今回の行事には遠いところでは、大島分会からも家族でご参加いただき、ありがとうございました。
【主婦の会役員・O】

福寿会「駒形どぜうの会」

  どぜう鍋とお酒で交流

写真福寿会では暑気払いと会員の交流をかねて、7月29日に「駒形どぜう浅草本店」で『駒形どぜうの会』を開催。7組のご夫婦を含む30人が参加しました。
 大澤良夫会長のあいさつの後、青木雅文副会長の音頭でカンパイ。11代将軍徳川家斉治下の1801年創業という「駒形どぜう」の交流会ということで、皆さん、この日の来るのを楽しみにしていたようで、どぜう鍋と昼間からのお酒を飲みながらの楽しい交流会でした。

健康診断を受診しましょう

  東京土建港支部

  集団検診

9月21日(日)
  午前9時〜12時

芝病院検診センター

☆お申し込みが必要です。詳しくは今月配布のチラシをご覧下さい。

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