8月4日〜6日、原水爆禁止世界大会が開かれ、東京土建港支部の代表として、初めて参加しました。
今年の大会は初めて参加した私にも感じられるくらい熱気に満ちたものとなりました。潘基文(パン・ギムン)さんが広島の平和式典に初参加をはじめ、世界大会にもアメリカ、ヨーロッパ、アジアの各国からの多数の代表が参加しました。まさに「世界の大局は核兵器の廃絶」です。
各団体からの若い人たちの参加の多さにも驚きました。広島での日程3日目に各分科会への参加があり、私は「反核・平和フォーラム」に参加しました。その会議にはエジプト、メキシコ、マレーシアの各国大使の出席で行われ、「世界が軍縮や核兵器をなくすために何をすべきなのかなど」若い人から高齢者の方々の活発な発言が続きました。とくに若い世代が関心を持ち、平和に向けて運動をしている姿は頼もしく思いました。
最終日の6日はグリーンアリーナ広島に8千人が出席しました。「広島・長崎の被爆から65年―ふたたび被爆者をつくるな。核兵器をなくせという被爆者の声は世界のゆるぎない流れとなっている。被爆者とともに、そして若いエネルギーを結集し、「核兵器のない世界」の実現にむけて前進しましょう」という広島決議―広島からよびかけ」を採択し、大会を終了しました。
参加にあたりましては、皆さまのカンパ、ご協力ありがとうございました。
【副委員長・園部 滋】
「核兵器を投下したことで、日本に戦争をやめさせた」と言われているニューヨーク入りでした。
コロンバス・サークル(アメリカのマンハッタン、アッパーウエストサイドにあ円形広場。中心にコロンブスの像があり、広場の周りをシャドウが取り囲む円形交差点になっている)などの駅頭では、「原爆パネル」を広げ、「被爆の実相を見てください。核兵器のない世界をいっしょにつくりましょう」と署名を訴えました。
私の所属する新婦人の会の会員さんから託された折鶴やしおりをお礼にわたしました。
国際行動では、タイムズスクエアから国連本部まえのハマーショルド広場までパレードし、NPТ再検討会議が開かれることを知らせました。横断幕やプラカード、はっぴや着物姿、笛や太鼓でアピールしました。
携えた港原水協からの署名も含め、日本原水協から691万筆を提出しました。
米軍基地問題研究家でアメリカフレンズ奉仕委員会のジョゼフ・ガーソンさんは「世界の核兵器廃絶を勝ち取るためには人々が力を尽くし、政府を動かしてその政策を変えさせることが最も重要です」と述べています。
たかが一筆、されど一筆。私たちの署名の一筆が世界を動かし、歴史切り開いていることを実感しました。
NPТの会議は核兵器をなくしていく上でのプロセスの一部だと言われています。原水爆禁止世界大会の新しい局面、連帯に期待しつつ、被爆国の日本だからこそ、私たちがひとりひとりに語り広げ、揺り動かし続けねばと思いました。
【新日本婦人の会・港支部事務局長・大原令子】
私は昭和5年7月生まれ。先月お陰さまで傘寿を迎えました。防水業界で40年。無事勤められましたのも皆々様のお陰と深く感謝しております。
思えば私は満州事変の前年に生まれ、小学校1年生のときは日支事変、5年生の時に太平洋戦争が始まりました。まるで昭和の戦史を生きて育った感があります。まして私たちは最後の学徒動員生と思います。
小学校5年生の10月、大阪府池田を離れ父母の故郷、愛媛県大井村(現今治市)に帰りました。その年10月8日、太平洋戦争が始まりました。
昭和18年4月、今治中学校(現今治西高)に入学、1年生時代はまだ戦勝が続き、授業は続けられました。が、だんだんと軍事教練も一層厳しくなり、農家の手助けにも行くようになりました。2年生になって陸軍幼年学校(陸幼)に優秀な者が718人。予科練に頑丈な者が314人合格して出征しました。
学徒動員になった者は「お国のため」と皆張り切りました。現場は今治港口の東洋紡で艦上爆撃機「彗星」の主翼部分の製作です。
仕事は皆、初めてです。ハンマーで鋲(びょう)を叩きこむ作業でなれない左手は腫れっぱなしでした。海軍将校が講演に来て、「彗星」は百機中3機も着かないと聞かされた時の口惜しさ。今でも覚えています。
日増しの空襲で作業も勉強もままならなくなりました。7月には部品がほとんど届かなくなり、仕事のない日が続きました。工場の森林に作られた防空壕に警報とともに飛び込んだものです。空を覆うB29の白く光る編隊。沖合の船へのグラマン機掃射での水しぶき。今でも目に焼き付いています。たまに今治市に落とされた爆弾の振動で壕の中が崩れたときは、皆で声を合わせて「貴様とおれとは同期の桜」「港今治、桜の下でおっと危ない千鳥足」と歌いました。
8月15日、終戦。学徒動員の期間は終戦まで5か月でしたが、1人の死傷者もなく無事学校への復帰が出来たのは不幸中の幸いでした。この先、戦争のない平和な世の中でありますよう祈っています。
【麻布分会・山本國雄】
港区立東町小学校で上総掘りの井戸をつくると聞き、その説明会に参加したのが今年5月。上総掘りは手掘りの井戸で、アフリカなどで日本の技術として大いに活躍しています。竹のワイヤーの先に鉄製のノミをつけて地中を掘るというので、竹に関してはいささかの自負がある私も地元の石工の小野健三さん(麻布分会)と一緒にボランティアとして協力することにしました。
井戸の中心を掘り始めると残土にガラが混じり、昔の建物の松杭なども出て作業は難航し、ようやく掘れる体制が出来たのは6月になってからです。常時7人から8人がほとんど休みもとらずに奮闘。私はもっぱらヒゴをつなぐ竹の「くさび」の制作をしました。お昼に小学校の給食をいただきましたが、作業はなかなかはかどりません。暑さも加わり、疲労もピークに。毎回作業の終わりに深さを測るのですが、「あんなに労働したのに」とがっかりして帰りに疲れが増す日が続きました。それでも、なんとか一学期の終業式にはポンプも据え付けて水も出て、感謝状をいただきました。完成して何とも言えない気持ちになりました。
「大変だったけれど、小学校の子どもたちや地域のひとたちに喜ばれて、本当に良かった」と小野さんも同じ気持ちを語っていました。
【白金分会・今井一雄】