機関紙建設なんぶ

機関紙建設なんぶ2012年08月10日号

原水爆禁止2012年世界大会‐広島


写真8月4日〜6日に開催された原水爆禁止世界大会に参加してきました。初めての参加です。広島に到着して強い日差しの暑い中、会場のグリーンアリーナまでの移動で汗だくになりました。広い会場には全国からの参加者がたくさん集まり、一体感に包まれた開会は、鳥肌が立つほどでした。
 爆心地から1Kmほどの所で被爆した坪井直さんは、その時の惨状を目の当たりにし
 体調を崩しながらも「核兵器廃絶にむけて戦っていく。生きている間になくなってほしい」と このような思いをつなぐ伝承者を広島市では育てているといいます。
この会場には、その思いが満ち溢れているようでした。
 海外では保険として核を持ちたい国も有る様ですが、地球上に2万発以上もの核兵器が存在し、その核兵器1発の性能を高める開発をしていて広島型の1000倍もの破壊力をもつ物もある、というなんとも恐ろしい事になってきています。
写真  原爆ドームを見に行きました。爆風によって吹き飛んだドーム状の天井、残っている少しの壁、爆心のすぐそばで頑張って建っていました。平和祈念式の準備にかかっている式典会場を抜け、広島平和記念資料館を見学。広島がどのように育ち、戦争により変わり、原爆投下、被爆、そして変わってしまった街、記憶を残す原爆ドーム。その記録がたくさんありました。
 翌日の分科会は、「反核平和の文化」に参加し、広島テレビに勤めていた利元克巳さんによる講義を聞く。放送綱領に「放送は意見の分かれている問題については、できる限り多くの角度から論点を明らかにし、公正を保持しなければならない」と、あるが。国家、経営、が支配するマスメディアなどは取り扱う内容により現場の自由が阻害され、ローカル局では公正な伝達が出来ない事もある。ネットによる生中継、ツイッターやフェイスブック。反核活動はこのような市民メディアが活躍した。
写真 平和のための戦争展を開催、反核の本を作ったり、短歌を作ったり、歌ってみたり、ということで、「うたごえ」のリードで数曲をみんなで合唱。これが結構楽しい。一体感ができるから?
 8月6日 平和祈念式に行きました。テレビではない事にちょっと感動、しっかりと黙祷してきました。
 公園にて、当時13歳1Km以内で被爆した女性から少しだけ話を聞きました。ぴかっと光った後気が付けば自分は水の中、皮膚がズルむけた人がいて、何も無い焼け野原を目の前に「きれいねー」と思ったそうです。この時の感情って語り継ぐだけでは伝えきれない特別な想いですよね。きちんと伝え残す事の重要性を感じました。

被爆者の貴重な話聞く


写真 今回、「原水爆禁止2012年世界大会・広島」に参加した港原水協代表団は、世界大会の最終日の「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に臨席後、被爆者の声を聞く活動に取り組んでいます。
 原爆の恐ろしさ、被爆者による平和への思いを私たちが語り継いでいくために、「慰霊式・祈念式」に参列した被爆者ご本人と思われる方に平和公園内でお声がけし、お話を聞かせていただく行動です。
 被爆当時1歳の子供も、今は68歳になっています。猛暑で外出を避けられたのか、あるいはお亡くなりになったのか、今回、人の出がとても少ないと思いました。そんな中、ベンチに座るDさんご夫婦にお声がけしたところ、ご主人がお話をしてくれました。

* * *

【Dさんの話】
 当時、国民学校の1年生で、原爆で父と兄を亡くしました。父親は、呉で海軍の軍需物資を製造する会社を経営していて、時局柄、休みなく操業していましたが、その日はたまたま休業にしたため、広島市内の自宅にいました。「休まなければ、亡くなっていなかったのでは」と思います。兄は、学校のグラウンドにいたそうです。飛来したB-29を見ていたため、顔が焼けてしまい、目が見えなくなったそうです。当時の人は強かったんですね。皆、熱いから、『海ゆかば』を歌いながら、川に入り、流木につかまっていたそうです。
 当時は、焼夷弾による火災が心配で、木造家屋を取り壊す「建物疎開」をしていました。それで豊富にあった木材を使って、死体を焼いていました。学校のグラウンドに穴を掘って、そこに数体の死体を入れて燃やした。
 当時は、服の胸に、名前や血液型を書いた名札をつけていたので、誰の死体なのか分かったようですが、父と兄や友人の死体はまとめて焼かれ、母親は燃やしているとことをずっと見ていたそうです。
 だから、私の家の墓には、友人の骨が入っているかもしれません。
 あまり言われないことですが、被爆後の広島の町は、臭いがすごかった。臭いなので、言葉で伝えられませんが、死体の臭いでもなかったです。
 姉は上半身にヤケドを負いましたが、当時、姉の体から独特の臭いがしたのを覚えています。
 今問題になっている「黒い雨」を自分は見ませんでしたが、山間部では、それを浴びた人の毛が抜けたそうです。
 あそこ(今座っているベンチの後方を指して)に、「ダンゴ」(慰霊塔)がありますが、亡くなった人(無縁仏)の骨が全て納められています。自分は祈念式にも参加しましたが、本当はここで黙祷しなければならないと思います。
 8月6日は死者を弔う日です。静かに迎えたいものです。
 被爆した人と家族は、結婚や就職のことで、差別されたこともありました。
 子供の幼稚園の運動会が、死体を焼いたグランドで行われました。ここで座っては悪いだろうと思いました。今でも、そこを掘れば、お骨が出てくるだろうと思います。

* * *

Dさんは、炎天下に、40分近く話をしてくれました。ご主人のとなりで話を聞いていた奥様は、「声掛けしてくれてよかった。こんな話を聞いたことがなかったし、主人から話してくれたこともなかった」と話していました。
【原水爆禁止港区協議会事務局】

東京土建シニア友の会結成10周年記念祝賀会に参加して


【みなと分会・福寿会事務局長 鈴木 功】
 7月17日に中野ゼロホールにおいて東京土建本部シニア友の会の結成10周年の記念祝賀会が開催されました。港支部からは、ノ井清会長、鈴木功事務局長、郡司信夫副会長、小野健三副会長の4人が参加し、交流してきました。
 本部役員のあいさつ、元衆議院議員で弁護士の松本善明さんの記念講演、二つの支部からの活動報告、前進座の余興と2時間半余りの楽しい集いでした。
 シニア友の会の会員数は9,968人と千人の会員が手の届くところまで発展し、港支部福寿会(シニア友の会の港支部の愛称)の会員数は76人となります。福寿会は、親睦と交流を目的に65才以上の高齢組合員を組織しています。
 支部福寿会の活動では、今年6月の千葉県「ばんや」でのラドン温泉の入浴と美味しい食事で楽しいひと時を過ごしました。今後も会員からの楽しいアイデアをもとに、楽しく交流できる企画を計画し、実行していきたいと思います。

 また、私たち高齢者の権利と福祉を向上させる運動も欠かすことができません。秋の拡大月間では、多くの皆さんの協力で、仲間を増やし、楽しく有意義な高齢者時代を築くために、組合の様々な運動に参加することにします。